米国「相互貿易協定(ART)」の衝撃

台湾・バングラデシュ・北マケドニア合意が日本企業に問いかけるもの

2026年2月28日 貿易・経済安全保障の専門家の視点から

はじめに:3件の合意が示す通商秩序の変容

2026年2月、米国は相次いで相互貿易協定(ART:Agreement on Reciprocal Trade)の署名および枠組み合意を発表しました。具体的には、バングラデシュとは2月9日に正式署名、台湾とは2月12日に正式署名、北マケドニアとは2月12日に枠組み合意(正式署名には至っていないフレームワーク段階)という形でそれぞれ合意に達しています。

ただし、これら3件はこの期間に発表されたARTの全てではありません。現在の米国政権は同時期に、インドとの暫定協定枠組み(2月6日)、インドネシアとの最終合意(2月19日)、さらにエルサルバドル、グアテマラ、アルゼンチンとの合意も積み重ねており、ARTは既に広域的なネットワークを形成しつつあります。

第1節 従来のFTAとは異なる「ART」の構造

ARTは、私たちがこれまで慣れ親しんできた多国間型のFTAや経済連携協定(EPA)とは、交渉の進め方も内容の構造も根本的に異なります。

従来の包括的FTAは、数年単位の交渉を経て全ての産業分野で段階的に関税を撤廃し、原産地規則、知的財産、投資、政府調達などを共通ルールで規律する形でした。これに対してARTは、大統領令に基づく一律の追加関税(特に「相互関税」の概念)を起点として設計された、極めて短期間かつ二国間取引型の枠組みです。

ARTの基本的な仕組みは以下の通りです。

  1. 相手国が米国産品の関税や非関税障壁を撤廃・削減し、米国産農産物、エネルギー、工業品の購入を増加させる。
  2. 見返りとして米国は相互関税率を一定水準まで引き下げ、または特定品目について関税ゼロを認める枠組みを設定する。
  3. 経済安全保障(輸出管理への協力、強制労働産品の排除、投資情報の共有など)が条項に組み込まれている。

ARTを「単なる関税引き下げ交渉」と見ると本質を見誤ります。米国産エネルギーの購入コミットや安全保障分野での連携が同一協定の中に組み込まれている点が、従来のFTAとの最大の違いです。

第2節 3件の合意:それぞれの内容と米国の戦略的背景

台湾:半導体投資協定と一対のART

台湾とのARTは、2026年1月に米商務省が発表した投資協定と一体で理解する必要があります。投資協定では、台湾の半導体・技術企業が米国内の半導体、AI、エネルギー分野に巨額の直接投資(TSMCの既存コミットを含む)を行うこと、および台湾政府が米国サプライチェーンへの追加投資を支援するための信用保証を提供することが合意されました。

その上で2月12日に署名されたART本体では、台湾産品のうち特定スケジュールに列挙された品目について米国側の相互関税をゼロとし、それ以外の台湾産品には所定の税率を適用するという仕組みが設定されています。台湾側は、米国原産の自動車、化学製品、機械、農水産物など広範な品目の関税を撤廃または削減し、米国連邦自動車安全基準適合車両の輸入数量制限を撤廃するなどの措置を取ることになりました。

バングラデシュ:アパレルの対米輸出路確保と購入コミット

バングラデシュは2026年11月に国連のLDC(後発開発途上国)認定から正式に卒業する予定であり、これまで先進国から受けてきた特恵関税の恩恵を失うという国家的な経済課題を抱えていました。その中でART署名は、対米輸出への相互関税率を段階的に引き下げる合意をもたらすものでした。

バングラデシュ側の主なコミットメントには、米国産農産物(小麦、大豆、綿花、トウモロコシ等)の巨額購入、長期的なエネルギー製品の購入、米国産航空機の調達、越境データの自由な移転の保証などが含まれます。同国の主力である繊維・アパレル産業については、米国産綿花などの繊維原料の輸入量と連動する形で、対米輸出時の無関税数量枠が設定される仕組みが設けられます。ただし、この繊維関連の詳細な仕組みは今後の実施細則で確定される部分が残っています。

北マケドニア:エネルギー網を見据えた枠組み合意

北マケドニアとの合意は、2月12日時点では枠組み合意(フレームワーク)の発表にとどまっており、正式なART署名には至っていません。

合意内容は、北マケドニアが全ての米国産工業製品・農産品に対する関税を撤廃し、米国は北マケドニア産品に対する相互関税を一定水準に据え置く一方、特定品目については関税ゼロを適用するという非対称な構造です。

エネルギー分野については、北マケドニアとギリシャを結ぶ新たなガスパイプラインの完成後に米国産LNGの購入を開始するとされており、現時点での即時購入ではありません。この合意は、NATO加盟国である北マケドニアと米国の「大西洋横断パートナーシップ」を深める文脈で位置付けられています。

第3節 日本企業に求められる経営上の判断

ART締結国での生産拠点の意味の変化

ARTを締結した国に生産拠点を置く日本企業は、対米輸出において競合国より有利な関税率の適用を受けられる可能性があります。台湾の電子・半導体関連企業と取引のある日系サプライヤーは、サプライチェーン内で米国産部品や素材の比率がどう評価されるかを把握する必要があります。

バングラデシュで縫製・アパレル工場を運営する日系企業にとっては、米国産綿花や化学繊維原料の使用比率と、対米輸出の無関税枠がリンクする仕組みが導入される予定であるため、原材料調達の見直しが直接的な経営課題となります。

「米国産コンテンツ」の組み込みという新たな視点

ARTが広がる中で共通して見られるのは、「相手国の市場開放」と「米国産品の購入・調達の拡大」を同時に求める構造です。日本企業がARTのメリットを最大化するには、単にどの国で生産するかだけでなく、そのサプライチェーンの中に米国産の農産物、エネルギー、部品がどの程度組み込まれているかという観点が、今後の貿易コンプライアンスや調達設計の中で問われる機会が増えていくと見られます。

日本自身のART交渉状況の注視

2026年2月時点では、日本とのART交渉は正式に発表されていません。米国が既に多数の国と合意を積み重ねる中で、日本の通商政策上の選択肢が今後どう設計されるかが注目点です。ART締結済みの国に迂回拠点を設ける戦略と、今後の日米間の通商動向を見極める戦略の双方の観点から、経営層が能動的な判断を迫られる局面が近づいています。

おわりに:一次情報に当たり続けることの重要性

ARTのネットワークは現在も急速に拡大・展開しており、各協定の最終文書、実施細則、発効要件は刻一刻と変化しています。特に北マケドニアのように枠組み合意から正式署名に至る間の詳細が変わりうる案件や、バングラデシュのように実施細則が未確定な案件では、米国通商代表部(USTR)やホワイトハウス、ジェトロ等の一次資料を直接確認することが不可欠です。企業の通商担当者、法務、調達部門は、継続的な情報アップデートを組み込んだ体制整備を早急に進めることが求められます。

免責事項

本記事は、公開された公的資料および報道に基づく一般的な情報提供とビジネス動向の解説を目的として作成したものです。特定の企業に対する投資助言、法的助言、税務助言、または通関判断を構成するものではありません。各国の通商政策・関税法令・協定条文は極めて流動的であり、枠組み合意と正式署名済み協定文では法的地位と内容が異なります。実際の事業判断・投資判断・法務手続きにあたっては、USTRおよびホワイトハウスの公式ファクトシート、各国官報・税関当局の公示、ジェトロ等の公的機関の一次情報、ならびに専門の弁護士・通関士・貿易コンサルタントによる最新の助言を必ずご確認ください。本記事の情報を利用したことにより生じたいかなる損害についても、執筆者は責任を負いません。