合意の中身より先に、企業が押さえるべき実務論点
日中韓FTAは、交渉そのものは長く停滞していたのに、政治日程と経済環境の変化で再び注目の中心に戻ってきました。交渉会合は2019年以降、公式には開催されていないと整理されてきた一方で、首脳・閣僚レベルでは「交渉を進める」方向性が改めて確認される場面が増えています。
こうした状況を踏まえると、再起動の焦点は、単に交渉が再開するかではなく、どの論点が先に動き、どこが最初のボトルネックになるかを見極めることにあります。

1 そもそも「再起動」とは何を指すのか
ニュースで「交渉再開」と言われても、実務的には段階がいくつもあります。大きくは次の順序です。
第一に、首脳・閣僚が交渉を進める政治意思を確認する。
第二に、担当者レベルで論点と作業計画を再設定する。
第三に、交渉会合(ラウンド)を公式に開催し、市場アクセスやルール文案を動かす。
現段階で確度が高いのは、第一と第二の動きが再び見え始めていることです。一方で、第三の交渉会合が継続的に回り出すかは、政治要因と実務論点の両方に左右されます。企業側としては、交渉が動き出すための条件と、動き出した後に最初に揉める論点の両方を押さえる必要があります。
2 なぜ今、日中韓FTAが再浮上するのか
2-1 域外リスクの上昇で、域内の取引コストが相対的に重要になった
世界的に保護主義リスクや関税リスクが高まる局面では、域内での関税・手続コストを下げる議論が現実味を帯びます。日中韓の枠組みは、輸出先の不確実性が増えるほど、調達・生産・販売の選択肢を広げる補助線として再評価されやすい構造にあります。
2-2 RCEPは土台になったが、企業が欲しいのは上乗せ
日中韓はすでにRCEPの枠内にあります。だからこそ、日中韓FTAの価値は、RCEPの上に何を追加できるかに集約されます。関税引下げを上積みできるのか、原産地規則や通関手続で運用負担をどこまで減らせるのか。ここが企業の実益を左右します。
2-3 供給網と経済安全保障が貿易ルールに入り込んできた
近年は、サプライチェーン強靱化、重要物資、輸出管理など、従来はFTAの周縁に置かれがちだったテーマが前面に出ています。これは交渉の難易度を上げる一方で、企業から見れば「不確実性を減らす対話枠組み」としての価値も持ち得ます。
3 再起動の焦点はどこか
ここからが実務の本丸です。交渉が再開すると、最初に詰める論点はだいたい決まっています。企業側は、結論が出てから対応するのではなく、論点ごとに自社への影響を見える化しておくことが重要です。
3-1 市場アクセスの設計
関税撤廃率、除外品目、段階引下げの年数
FTAの成果は、最終的にどの品目が、いつ、どこまで下がるかで決まります。日中韓は産業構造が似ているため、競合が強い分野ほど例外や長期段階化が増えやすい傾向があります。ここがRCEPとの差分になりにくい場合、企業にとっての実益が薄れます。再起動後の焦点は、関税率の数字そのもの以上に、どの分野で差が出る設計になるかです。
3-2 原産地規則の上乗せ
累積、デミニミス、自己証明、手続簡素化
企業が本当に欲しいのは、関税率そのもの以上に、原産地判定と証明の運用が軽くなることです。日中韓のサプライチェーンは部材が行き来するため、累積の扱いが実務インパクトを左右します。RCEPに近い設計に留まるのか、より使いやすい累積や簡素化が入るのかが、再起動後の最重要論点の一つになります。
3-3 デジタル・電子商取引
越境データ、セキュリティ、電子文書の受入れ
製造業でも、受発注、物流、インボイス、原産地証明関連の電子化が進み、データの越境移転やセキュリティ要求が運用コストを直接左右します。再起動後は、企業内規程や取引先要求に直結する論点として、条文の方向性を早めに把握する価値があります。
3-4 サービス・投資
ネガティブリスト、現地要件、投資保護の設計
日中韓FTAは物品だけでなく、投資やサービスを含む包括協定として議論されてきました。この分野は、関税よりも、現地拠点の運営、技術移転、ガバナンス、紛争時の保護に効いてきます。どこまで踏み込むかが、企業にとってのリスクと機会の分かれ目になります。
3-5 経済安全保障と輸出管理の扱い
協力の枠にするのか、例外条項で逃がすのか
再起動の難所になりやすいのがここです。FTA本文で踏み込むのか、協議の枠組みだけに留めるのか、あるいは安全保障例外で幅広く逃がすのか。企業側は、政治的緊張が高まった場合の供給網寸断を前提に、二重三重の調達・生産シナリオを持つ必要があります。
3-6 非関税分野の実装
TBT、SPS、通関手続、相互承認の現実性
関税が下がっても、認証、規格、検疫、通関手続が重いままだと取引コストは落ちません。日中韓の取引では、規格適合、表示、検査、追加書類などがリードタイムとコストを左右しやすい。企業にとっては、関税よりこちらのほうが効くケースもあります。再起動の焦点は、非関税分野が「協力宣言」で終わるのか、「実装可能なルール」に落ちるのかです。
4 交渉を止めてきた要因と、再起動のボトルネック
交渉は技術論だけでは動きません。過去に止まった理由が、再起動の足かせとして残ります。
政治・安全保障の緊張が高まると、FTAは後回しになりやすい。
貿易と無関係に見える問題が、経済関係に波及する。
輸出管理や制裁、対立が、投資と技術移転の議論を難しくする。
このため、再起動は「声明は出るが、ラウンドが回らない」状態になりやすいことを、企業側は織り込む必要があります。交渉の進展が断続的でも、企業実務は先に準備した側が得をします。
5 企業がいま準備すべきこと
交渉の結論待ちをやめる
日中韓FTAは、妥結するかどうかも、いつ動くかも不確実です。だからこそ、準備は交渉の外で進めるのが合理的です。
5-1 影響を3層に分けて試算する
関税率の変化で損益が動く品目
原産地規則の運用で調達先が動く品目
認証や規格でリードタイムが動く品目
5-2 原産地と分類の証憑を先に整える
FTAは適用して終わりではなく、後日検証が来ます。品目分類の根拠、部材表、工程、原価、輸送条件を一体で説明できる状態を平時から用意しておくと、交渉が動いた瞬間に適用検討へ入れます。特に日中韓のように部材が混在しやすい地域では、累積やデミニミスの設計次第で、必要な証憑が変わります。
5-3 契約条項を、関税と規制の変動前提にする
価格条項、関税負担の帰属、原産地証明の責任分界、監査対応の協力義務。これらはFTAの有無にかかわらず効きます。交渉が再起動すると、取引先から要求が急に強まる領域なので、先に雛形を整えておくと交渉力が落ちません。
まとめ
再起動の焦点は、関税より先に運用をどう変えるか
日中韓FTA交渉の再起動で最も重要なのは、関税率の数字だけを追いかけないことです。RCEPの上に何を上乗せし、原産地、デジタル、投資、非関税措置、そして経済安全保障の不確実性を、企業が運用可能なルールに落とし込めるか。ここが実益の核心です。
結論が出てから準備するのでは遅い。いま必要なのは、自社の品目とサプライチェーンを論点別に分解し、どの条文案が来ても対応できる状態を作ることです。交渉が本格的に回り出したとき、準備済みの企業は、適用の可否判断も、価格交渉も、監査対応も、一段速く動けます。