1. 序論:通商政策の歴史的転換点と司法による権力制限
2026年2月20日、米国連邦最高裁判所は、ドナルド・トランプ大統領が国際緊急経済権限法(IEEPA)を根拠として発動した広範な「相互関税(Reciprocal Tariffs)」および特定の国を対象とした懲罰的関税について、大統領の権限を著しく逸脱する違憲な措置であるとの歴史的判決を下した。6対3の多数意見において、ジョン・ロバーツ最高裁長官は「憲法の起草者は、課税権のいかなる部分も行政府に付与していない」と判示し、平時において関税を設定し変更する権限は、合衆国憲法第1条第8項に基づき米国議会にのみ専属するという憲法上の基本原則を再確認した。
この判決は、トランプ政権が第2期において最も強力な外交的・経済的武器として行使してきた「関税による威嚇と取引」の法的基盤を根底から覆すものであった。特に、カナダ、メキシコ、中国からの麻薬(フェンタニル)流入を理由とした関税や、世界各国のほぼすべての貿易パートナーに課された「解放記念日(Liberation Day)」関税など、IEEPAを根拠とする一連の措置は即座に無効化された。
しかし、トランプ大統領は直ちにこの判決を「国家の恥」であり「憲法への裏切り」であると激しく非難し、司法の決定に屈しない姿勢を鮮明にした。大統領は最高裁の判決からわずか数時間後に、代替的な法的根拠である1974年通商法第122条を援用し、世界各国に対して一律10%の「グローバル関税」を即時発動する大統領令に署名する構えを見せた。
本レポートでは、この違憲判決が米国の国内経済および法秩序に与える衝撃を解き明かすとともに、世界の通商秩序、サプライチェーン、そして各国政府・企業の戦略にどのような波及効果をもたらすかを網羅的に分析する。特に、メキシコおよびカナダといった近隣諸国、日本、中国、韓国、欧州連合(EU)、およびその他の主要国が、この判決とそれに続くトランプ政権の「代替措置(プランB)」に対してどのような反応を示し、いかなる戦略的対応に動くかを深く考察する。
2. 米連邦最高裁判決の法理的構造と経済的波及効果
2.1 IEEPAの限界と三権分立の再確認
今回の訴訟(Learning Resources, Inc. v. Trump および Trump v. V.O.S. Selections)における最大の争点は、1977年に制定された国際緊急経済権限法(IEEPA)が大統領に関税を課す権限を与えているか否かであった。大統領府側は、IEEPAが大統領に国家緊急事態において国際取引を「規制(regulate)」する権限を与えており、この「規制」には関税の賦課も含まれると主張していた。
しかし、連邦巡回区控訴裁判所の判決を支持した最高裁の多数意見は、この解釈を明確に退けた。裁判所は、IEEPAの条文には「関税(tariffs)」や「関税義務(duties)」への言及が一切存在せず、議会が行政府に関税権限を委譲する意図があったならば、他の通商法規と同様に明示的に記載したはずであると論じた。ロバーツ長官は、「合衆国は世界中のすべての国と戦争状態にあるわけではない」と指摘し、無制限の金額と期間にわたる関税政策の決定権を大統領に白紙委任するような法解釈は、議会の課税権を侵害するものであると断じた。
2.2 巨額の関税還付を巡る経済的衝撃と国内の政治的対立
この判決がもたらす最大の経済的副産物は、過去に違法に徴収された関税の還付(Refund)問題である。ペン・ウォートン予算モデルの試算によれば、IEEPAに基づく関税は米国の総関税収入の約半分を占める規模にまで膨張しており、その総額は1,300億ドルから1,750億ドルに上ると推定されている。
最高裁は関税の違憲性を認めたものの、具体的な還付手続きやその可否については直接の判断を下さず、国際貿易裁判所(CIT)に差し戻した。反対意見を執筆したブレット・カバノー判事も指摘する通り、米国政府は輸入業者に対して数十億ドルから数千億ドル規模の資金を返還する義務を負う可能性があり、そのプロセスは極めて複雑な訴訟合戦を引き起こす。コストコ(Costco)などの大手小売業者をはじめとする30万社以上の企業が既に還付を求める法的手続きを進めており、これらの企業は株主に対する受託者責任の観点からも、強硬に還付を請求することが予想される。
この還付問題は、米国の国内政治においても新たな火種となっている。カリフォルニア州のギャビン・ニューサム知事は、イェール大学の調査で関税により平均的な家庭が昨年1,751ドルを失ったというデータを引用し、トランプ大統領に対して「利子をつけて即座に返金せよ」と要求した。さらに、イリノイ州のJ.B.プリツカー知事に至っては、州内の511万世帯が負担した関税コストとして総額86億8000万ドルの「請求書(未払い・滞納と明記)」をトランプ大統領宛に送付するなどの抗議行動に出ている。民主党のチャック・シューマー上院院内総務やキャサリン・クラーク下院議員らも、この判決を「米国の消費者と勤労者家族の勝利」と位置づけ、大統領の権力乱用を牽制している。
以下の表は、IEEPA関税の還付がもたらす経済的影響の推定構造を示している。
| 経済指標・項目 | 推定規模・影響 | 根拠・メカニズム |
| IEEPA関税の徴収総額 | 約1,300億ドル 〜 1,750億ドル | 米国関税収入の約60%(2025年時点)を占める。関税の違法化により、理論上は全額が還付対象となる。 |
| 消費者負担の増加 | 1世帯あたり平均1,751ドル | イェール大学の調査に基づく。企業が関税コストを価格転嫁した結果、日用品や食料品の価格高騰を招いた。 |
| 企業の還付訴訟 | 30万社以上が対象 | 輸入業者は通常、清算から180日以内に不服を申し立てる権利を持つ。コストコや日系企業が提訴済み。 |
| 米国債への影響 | 利回り上昇の圧力 | 巨額の税収減と還付による財政負担の増加が懸念され、短期的には国債利回りの上昇圧力となる。 |
2.3 代替関税措置(プランB):通商法第122条への移行とその限界
IEEPAの無効化を受けて、トランプ政権は即座に「プランB」へと移行した。大統領は1974年通商法第122条(Section 122)に基づき、世界各国に対して一律10%の追加関税を課す大統領令に署名すると発表した。カバノー判事が反対意見で列挙したように、大統領には他にも1962年通商拡大法第232条(国家安全保障)、1974年通商法第301条(不公正貿易)、1930年関税法第338条など、議会から委譲された強力な通商権限が残されている。
しかし、通商専門家のサイモン・レスターらが分析するように、第122条の行使には法的な制約が存在する。同条項は、米国の「根本的な国際収支問題(fundamental international payments problem)」や深刻な貿易赤字に対処するための時限的措置として設計されており、最大15%の関税を150日間のみ課すことが許されている。150日を超えて関税を維持するには議会の承認が必要となる。また、この措置は特定の国を狙い撃ちにするのではなく、全貿易パートナーに一律に適用されなければならないという制約がある。
この「150日間の時限措置」は、グローバル経済に新たな不確実性をもたらす。2026年2月20日の発動から150日後となると、同年7月下旬に「関税の崖(Tariff Cliff)」が訪れる計算となる。同年11月に中間選挙を控える米国議会が、インフレ再燃の元凶となり得る関税の延長をすんなりと承認するかは不透明である。各国政府および企業は、この期限を睨みながら、米国との水面下の交渉を加速させることになる。
3. 各国の対応と戦略的ダイナミクス
違憲判決という司法の介入によって米国の通商政策の手法が強制的に変更された結果、各国の対応は地域ごとの既存の通商条約や抱えている産業構造によって大きく異なる。各国は、目前の「相互関税の撤廃」という安堵と、迫り来る「第122条等による代替関税」という新たな脅威の狭間で、極めて高度な戦略的綱引きを強いられている。
3.1 近隣諸国(メキシコ・カナダ)とUSMCAの存亡の危機
米国と経済的に最も密接に結びつき、北米サプライチェーンの中核を成すカナダとメキシコにとって、今回の判決は「一時的な救済」であると同時に「より破壊的な圧力の予兆」を意味している。
両国はこれまで、トランプ大統領から「麻薬(フェンタニル)や不法移民の流入を阻止していない」という理由で、IEEPAに基づく最大35%から50%の懲罰的関税の標的とされてきた。カナダのドミニク・ルブラン国際貿易相が「関税が不当であるというカナダの立場を裏付けるものだ」と歓迎したように、このフェンタニル関税の法的根拠が消滅したことは、両国の輸出産業にとって朗報であった。
しかし、両国は手放しで喜んでいるわけではない。カナダ商工会議所のキャンディス・ラング会頭は、「この判決は米国の貿易政策のリセットを意味するものではない。カナダは、米国が貿易圧力を再主張するために用いる、より広範で破壊的な影響をもたらす新しい、より鈍重なメカニズム(blunter mechanisms)に備えるべきだ」と警告している。実際に、カナダの自動車労働組合(Unifor)のラナ・ペイン委員長も指摘するように、鉄鋼、アルミニウム、および自動車産業に対する通商拡大法232条に基づく関税は最高裁判決の影響を受けず、依然として有効なままである。
ここで最も注視すべきは、2026年7月1日に予定されている「米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」の第1回合同見直し(Joint Review)である。USMCAの第34.7条(サンセット条項)に基づくこの見直しプロセスにおいて、3カ国が合意しなければ協定の存続期間は延長されない。 IEEPA関税が違憲とされたことで、米国はUSMCA再交渉のテーブルにおいて「フェンタニル関税の脅し」という強力なカードを失い、メキシコとカナダの交渉力が相対的に強化されたと分析されている。しかし、トランプ政権はこれを補うために、代替手段である第122条関税や第232条関税の適用除外をチラつかせながら、「痛みを伴う延長(Painful Extension)」戦略に出ることが確実視される。メキシコのマルセロ・エブラルド経済相が「どのように終わるか分からない。メキシコの場合、関税措置の一部しかIEEPAに関連しておらず、他の措置はそうではないからだ」と語る通り、両国は複雑に絡み合う法規定の網の目の中で、デジタル関税、酪農市場、中国製EVの迂回輸出防止など、多岐にわたる譲歩を迫られることになる。
3.2 日本:サプライチェーン再編の加速と巨額還付への期待
日本の対応は、政府レベルでの冷静な状況分析と、民間企業による積極的な法的攻勢という「二段構え」の様相を呈している。 2026年2月21日時点において、日本政府(経済産業省や外務省など)から最高裁判決に直接言及した公式な声明は出されていないが、水面下では米国による「第122条に基づく10%のグローバル関税」が日本の自動車・機械・電子部品の対米輸出に与える影響の算定を急いでいると推測される。
民間レベルでは、日本企業はこれまでトランプ政権の相互関税によってサプライチェーンに甚大なコスト増を強いられてきた。これに対し、トヨタ通商、住友化学、横浜ゴム、ウシオ電機などの日系大手企業は、既に米国際貿易裁判所(CIT)に提訴を行っており、違憲判決が出た場合の関税還付を求めていた。今回の最高裁判決はこれらの企業にとって完全な追い風となり、過去に納付した関税が還付され、企業収益を直接的に押し上げる可能性が高い。このニュースを受け、東京市場やニューヨーク市場でも、対米輸出企業の利益率改善を見込む動きが広がり、ダウ工業株30種平均は230ドル高を記録、AmazonやAppleといった多国籍企業の株も買われた。
しかし、中長期的な戦略的インプリケーションとして、日本は極めて繊細な舵取りを迫られる。大西洋評議会のアナリストが指摘するように、日本やEUのような主要な貿易パートナーは、これまでにトランプ政権との間で結んだ既存の貿易合意を「維持するインセンティブが働く」。合意を破棄すれば、トランプ政権が第232条(国家安全保障)というさらに厄介な手段を用いて、日本の基幹産業である自動車や同部品に対して高関税を課す報復に出るリスクがあるからだ。 例えば、ソフトバンクグループが主導し、日立、東芝、三菱電機が関心を示すオハイオ州の330億ドル規模の天然ガス発電所建設プロジェクトなど、日本企業は米国での大規模なインフラ投資を進めている。日本政府および経済界は、「相互関税の無効化」を歓迎しつつも、トランプ大統領を刺激しないよう公式な非難を避け、実質的なサプライチェーンの現地化(オンショアリング)と米国への直接投資をさらに加速させることで、いかなる関税が発動されても影響を最小化するヘッジ戦略を取り続けると分析される。
3.3 中国:通商法301条への回帰と米中デカップリングの行方
中国にとって今回の違憲判決は、経済的な実利という点では限定的な影響にとどまる。なぜなら、トランプ政権が対中関税の主たる武器として用いているのは、今回違憲とされたIEEPAに基づく関税ではなく、1974年通商法第301条(知的財産権侵害や不公正貿易を理由とする制裁)だからである。
判決前の段階から、中国商務部(MOFCOM)の何亜東(He Yadong)報道官は、米国の「相互関税」構想に対し、「WTO規則に違反する典型的な一国主義・保護主義的行動であり、80年にわたる多角的貿易体制の利益の均衡を無視するものだ」と強く非難していた。今回の最高裁の判断は、結果として米国の国内法廷が中国の主張の正当性を一部裏付けた形となった。
しかし、米中関係における「関税の応酬」は構造的なものであり、最高裁の判決で解消される性質のものではない。直近の米中協議(クアラルンプール協議など)において、米国がフェンタニル対応を理由とした10%の追加関税の解除やIEEPA相互関税の凍結を約束する代わりに、中国も報復関税の解除や「関連企業規則(Affiliates Rule)」に基づく輸出制限の凍結を行うという、複雑な取引が形成されていた。IEEPA関税が違憲となったことで、米国は中国に対する交渉カードの1つを喪失したが、トランプ大統領は第122条に基づく一律10%関税を適用することで、即座にその穴を埋めようとしている。
中国側の対応としては、表向きは「米国の司法制度がトランプ政権の不法な権力濫用を認めた」としてこれを利用しつつ、実務レベルでは通商法第301条による関税の継続や、半導体・AI分野における輸出規制・投資規制の強化に備える動きを崩さない。米国による「関税の法的根拠のすげ替え」が続く限り、中国の根本的な対米デカップリング戦略や、自国産業の保護政策に変更はないと推測される。
3.4 韓国:天文学的投資合意の前提崩壊と国内政治的ジレンマ
今回の判決によって、最も劇的かつ複雑な戦略的ジレンマに直面しているのが韓国である。この事象は、関税という経済ツールが同盟国の国内政治にいかに深く干渉するかを示す典型的な事例となっている。
韓国はこれまで、米国の通商圧力の矢面に立たされてきた。トランプ政権は、自動車、木材、医薬品などに対して25%の相互関税を課すという強力な脅しを用いて韓国に譲歩を迫った。これに対し韓国政府は、巨額の対米投資(総額3,500億ドル規模、うち2,000億ドルは現金分割、1,500億ドルは造船協力)を行うという歴史的な譲歩を示すことで、関税を25%から15%へと引き下げる覚書(MOU)に合意していた。最近でも、韓国国会での関連法案(戦略的投資管理に関する特別法)の承認遅れを理由に、トランプ大統領がSNSで「再び関税を25%に引き上げる」と脅迫し、韓国産業通商資源部(MOTIE)やサムスン、SK、現代自動車、セルトリオンなどの財界トップが緊急対応に追われたばかりであった。
最高裁がIEEPA関税を違憲としたことで、トランプ政権が韓国に突きつけていた「25%の関税」という脅威の法的根拠が完全に消滅した。法理論上、韓国製品に対するこれらのIEEPA関税は0%に引き下げられなければならない。これは韓国の輸出企業にとって年間数百億ドルのコスト削減を意味する朗報である一方で、韓国政府にとっては頭痛の種となる。なぜなら、「違法な関税を回避する」という唯一最大の目的のために米国に約束した3,500億ドルという天文学的な投資の「見返り」が、判決によって自然消滅してしまったからだ。
韓国の戦略的対応は極めて難しい。国内の強硬派からは「米国の関税の脅しは違法だったのだから、不当に結ばされた投資合意も破棄・再交渉すべきだ」という強烈な政治的圧力が李在明政権に対してかかることが確実である。しかし、もし韓国が合意を破棄すれば、トランプ大統領は合法な権限である通商拡大法第232条(国家安全保障)を乱用して、韓国の生命線である自動車産業や半導体に対して壊滅的な関税を課す報復に出る危険性が高い。 したがって、韓国の今後の対応としては、国内世論の反発をなだめつつも、表向きは既存の対米投資計画(特に造船や原子力潜水艦関連など、韓国側にも安全保障上の利益がある分野)を維持し、米国政府に対しては「代替関税(第122条など)からの完全免除」を引き換え条件として要求する、再度のパッケージ交渉を水面下で模索することになると分析される。
3.5 欧州連合(EU):安堵と新たなる警戒、防衛策の構築
欧州連合(EU)の反応は、制度的安定性を重視する立場からの安堵と、予測不可能なトランプ政権に対する強い警戒感が入り交じったものである。
EUは、昨年夏の合意により米国向け輸出の大半に対して15%の相互関税を受け入れていた。この合意は、欧州のビジネス界(特にドイツの自動車・機械産業)に一定の確実性をもたらし、ユーロ圏21カ国が景気後退を回避する一助となっていた。しかし、この15%関税もIEEPAを根拠としていたため、今回の判決によって違法とされた。 欧州委員会の通商担当報道官オロフ・ギルは、「判決を留意し、慎重に分析している」と述べるとともに、「大西洋両岸のビジネスは安定性と予測可能性に依存している」と強調し、関税の引き下げに向けた協力を米国に呼びかけた。欧州議会国際貿易委員会のベルント・ランゲ委員長は、この判決が自身の「違憲である」という見解と完全に一致すると評価しつつも、米国が「プランB(異なる法的根拠による関税再導入)」を打ち出してくることを正しく予測・警戒していた。また、緑の党のアンナ・カヴァッツィーニ欧州議会議員は、判決の結果が明らかになるまで現在のEU・米国貿易協定の批准を「一時停止(pause)」すべきだと主張している。
トランプ大統領が即座に第122条に基づく10%のグローバル関税を発表したことで、EUの懸念は現実となった。ドイツ商工会議所が「不確実性は依然として高い。米政権は貿易制限のための他の手段を持っており、ドイツ企業はそれに備えなければならない」と警告している通りである。EUは今後、最高裁判決によって宙に浮いた「15%キャップ合意」の再解釈を進め、トランプ政権の新たな10%関税がこれを上書きしないよう通商交渉を加速させるとともに、デジタルサービス税に対する米国の報復への防衛策を講じることとなる。
3.6 その他の主要国(英国、インド、ブラジル)のダイナミクス
米国による関税措置の法的根拠の変更は、その他の主要国に対しても国ごとに全く異なるインセンティブと戦略的反応を引き起こしている。
英国の特権維持戦略 英国政府の反応は特異である。英国はこれまで米国との間で相互関税の負担を10%という「世界で最も低いレベル」に抑え込む特権的な取り決めを結んでいた。最高裁判決を受け、英首相官邸(ダウニング街10番地)や政府報道官は「いかなる状況でも米国との特権的な貿易関係は続くと期待している」と述べ、トランプ政権との良好な政治的関係をテコにして、新たな122条関税の下でも特別扱いを獲得しようと動いている。しかし、英国商工会議所のウィリアム・ベイン通商政策責任者は「大統領の権限は明確になったが、ビジネスに対する濁った水(murky waters)はほとんど解消されていない」と冷ややかな見方を示している。
インドの強気な再交渉 トランプ大統領は、ロシア産石油の輸入などを理由にインドに対して最大50%の懲罰的関税を課していたが、最近の二国間交渉により18%への引き下げで暫定合意していた。違憲判決により、インドの輸出業者はIEEPA関税の足枷から解放されることとなった。興味深いことに、トランプ大統領は違憲判決を受けた直後の記者会見で「インドの取引は有効だ(The India deal is on)」と公言し、合意の維持を強調した。インド政府は、今回の判決を奇貨として、米国との本格的な自由貿易協定や特恵貿易の再交渉において、より強気な姿勢で臨むことが可能となった。
ブラジルの「競争力回復」という逆説 ブラジルは、他国とは異なる視点からこの状況を歓迎している。同国のジェラルド・アルキミン副大統領兼開発商工相は、最高裁判決とそれに続く米国の10%グローバル関税への移行によって、米国との通商交渉は「強化される」と述べた。その理由は、これまでブラジルは他国にない40%という著しく高い関税の標的にされていたため、トランプ政権が「すべての国に一律10%」という代替関税(第122条)に切り替えることは、相対的にブラジルの競争力を劇的に回復させ、プレイングフィールドを平坦にする(Leveling the playing field)効果があるからだ。これは、一律のグローバル関税が及ぼす影響が、既存の関税率の不均衡によって国ごとに全く逆の作用をもたらすという重要な事実を示している。
以下の表は、主要国・地域の戦略的立場と今後の対応方針をまとめたものである。
| 国・地域 | 判決前の主な関税圧力(IEEPA等) | 判決と代替措置(122条等)に対する戦略的対応方針 |
| メキシコ・カナダ | 最大35%〜50%(フェンタニル対策等) | IEEPA無効化を歓迎しつつ、2026年7月のUSMCA見直しに向け、232条関税を回避するための強靭な交渉体制を構築。 |
| 日本 | 多岐にわたる相互関税 | 還付訴訟による企業収益の回復を期待。政府は静観しつつ、米国への直接投資とサプライチェーンの現地化を加速。 |
| 中国 | 相互関税および301条関税 | 301条関税が残存するため影響は限定的。不確実性の高まりを理由に、独自のサプライチェーン構築と対米デカップリングを推進。 |
| 韓国 | 25%の関税脅迫と3,500億ドルの投資合意 | 関税の法的根拠が消滅したことで投資合意の前提が崩壊。国内政治の反発を抑えつつ、代替関税の免除を求めて再交渉を模索。 |
| EU | 15%上限の相互関税合意 | 既存の合意を再解釈し、10%の新関税が上乗せされないよう交渉。同時にWTO規則に基づく報復措置の準備を進める。 |
4. 第2次・第3次波及効果(マクロ・システム的インプリケーション)
今回の違憲判決とそれに対する各国の反応、そしてトランプ大統領の代替措置の応酬を総合すると、グローバル経済には表層的なニュースを超えた深遠な「第2次・第3次波及効果」が生じることが明らかである。
4.1 「関税の崖(Tariff Cliff)」:150日後のコンバージェンス・ポイント
最大のシステム的影響は、カレンダー上の戦略的結節点が浮き彫りになったことである。トランプ大統領が新たに依拠する通商法第122条に基づく10%関税は、法律上「最長150日間」しか有効ではない。2026年2月20日から150日後となると、2026年7月中旬から下旬に期限を迎える。
特筆すべきは、このタイミングが前述の「USMCAの第1回合同見直し期限(2026年7月1日)」とピタリと重なることである。米国は、この2026年7月というタイミングを「メガ・ネゴシエーション(包括的再交渉)」の締め切りとして設定する可能性が高い。議会に対しては122条関税の延長(または法改正)を迫り、メキシコ・カナダに対してはUSMCAの再承認と引き換えに過酷な条件を飲ませ、欧州や日本に対しても新たな枠組み合意を強要する、という複合的な通商圧力をかける戦略に出ると予想される。各国政府の通商当局は、この「7月の崖」に向けて、あらゆる外交リソースを集中させる必要がある。
4.2 合意の法的安定性の崩壊と「交渉の逆転現象」
もう一つの重要な波及効果は、米国が結ぶ「通商合意」の価値低下と、それに伴う交渉態度の硬化である。 トランプ政権は「関税を課す」という脅しによって、韓国から3,500億ドルの投資を引き出し、EUや英国から自発的な輸出制限を引き出した。しかし、その関税の法的根拠が違憲とされたことで、「脅しの手段」が一時的にせよ消滅した。 カバノー判事が懸念したように、これは既存の貿易協定の前提を覆すものである。各国は「トランプ大統領の要求に従って合意を結んでも、米国の裁判所がそれを違法とするならば、最初から過度な要求を拒絶して法廷闘争や議会ロビー活動に持ち込んだ方が有利ではないか」という学習効果を得た。これにより、トランプ政権の「ディール(取引)」戦略の威信は大きく傷つき、米国との新たな通商交渉において、各国の態度はこれまで以上に強硬かつ慎重なものとなる「交渉の逆転現象」が起きることが予想される。
5. 結論と中長期的な展望
2026年2月の連邦最高裁による「トランプ相互関税違憲判決」は、単なる国内の権力闘争や行政訴訟の枠を超え、世界の通商秩序とサプライチェーンの前提を劇的に書き換えるマクロ経済的転換点となった。
この判決により、大統領が「国家緊急事態」というマジックワードを用いて、議会の承認なしに恣意的かつ無制限な関税を世界中に課すという手法(IEEPAの乱用)は完全に封じられた。これは法治主義と三権分立にとっての歴史的承認であり、企業のコスト構造に透明性をもたらす一歩である。 しかし、トランプ大統領がこの判決に服従し、従来の自由貿易路線に回帰することは決してない。大統領は直ちに1974年通商法第122条(国際収支問題)という代替手段に移行し、さらに1962年通商拡大法第232条(国家安全保障)や1974年通商法第301条(不公正貿易)といった、より手続きが厄介で市場への影響が局所的かつ破壊的な法律へと関税政策の軸足を移した。
各国の対応は、この「法的な看板の架け替え」の裏にある実質的なリスクを冷静に計算したものとなる。
- 日本・欧州は、巨額の関税還付という経済的果実を民間企業が回収するのを支援しつつ、7月の「150日ルール切れ」を見据えた新たな合意形成に奔走する。
- カナダ・メキシコは、USMCA見直し交渉において、IEEPA関税の脅しが消えた有利さを生かしつつも、第232条という別の武器をちらつかせる米国との神経戦に直面する。
- 韓国は、脅しが消滅した中で、既に約束してしまった莫大な対米投資の国内的妥当性をどう説明し、再交渉をいかに進めるかという政治的難局を処理しなければならない。
- 中国は、関税の根拠がすげ替えられただけで実態が変わらない米国に対し、長期的なデカップリングと独自経済圏の構築を継続する。
総じて、世界各国は「トランプの予測不可能な関税にただ怯える段階」から、「米国の国内法と司法制度の限界を熟知し、大統領の権限行使の期限(150日)や法的な隙を突いて戦略的交渉を行う段階」へと移行したと言える。グローバル企業および各国の通商担当者は、関税という表面的な数字の上下に一喜一憂するのではなく、米国の通商法規の適用条件、連邦裁判所の動向、そして米国議会の動静を緻密に分析し、多層的なリスクヘッジと供給網の再構築を迅速に進めることが不可欠となる。
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