ATIGA改訂とe‑Form D完全電子化が、ASEANビジネスをこの先10年レベルで変えていきます。
1. いま何が起きているのか(ごく簡単に)
- 2025年10月26日
クアラルンプールで開催された第47回ASEAN首脳会議の場で、ASEANは
「ASEAN物品貿易協定(ATIGA)」の**第2次改正議定書(Upgraded ATIGA/ATIGA 3.0)**に署名しました。(Vietnam National Trade Repository) - 同じ首脳会議で、ティモール=レステがASEANの11番目の加盟国として正式に加入し、ASEANは「11カ国体制」になりました。(ASEAN Main Portal)
- 一方、2024年1月1日からは、ATIGAの原産地証明書であるForm Dの完全電子化(e‑Form D)が、従来の10加盟国すべてで本格運用開始。輸入側税関は紙のForm Dによる特恵関税申請を原則として拒否できるルールに移行しました。(ASEAN Main Portal)
つまり、
「協定そのもの(ATIGA)がアップグレードされ、
それを支えるインフラ(e‑Form D・ASW)が完全デジタルに切り替わった」
という、制度とシステムの両方が同時に更新されつつある局面にあります。
本記事では、ビジネスパーソン向けに
- ATIGA改訂(ATIGA 3.0)で何が変わるのか
- e‑Form D完全電子化の実務インパクト
- 日本企業・多国籍企業が「今やるべきこと」
を、できるだけ平易な言葉で整理します。
※2025年12月4日時点の公表情報に基づいています。実務適用時は必ず各国当局・専門家の最新情報をご確認ください。
2. ATIGAとは何か ― ASEAN域内貿易の「土台」
2-1. 基本情報
- 正式名称:ASEAN Trade in Goods Agreement(ATIGA)
- 署名:2009年2月26日、タイ・チャアム(ASEAN Main Portal)
- 発効:2010年5月17日(WIPO)
- 役割:ASEAN自由貿易地域(AFTA)の「物品貿易」を担う中核協定で、
域内の関税撤廃・削減や通関手続のルールを一括して定める枠組みです。(RTAIS WTO)
ATIGAの結果、ASEAN域内貿易にかかる関税は
- 2020年時点で約98.6%の品目で関税が完全撤廃され、(ASEAN Main Portal)
- ASEAN6(ブルネイ・インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイ)ではほぼ99%以上の品目がゼロ関税になっています。(Timor-Leste Customs Authority)
つまりATIGAは、「ASEAN域内は関税面ではほぼ単一市場」と言える状態をつくった協定です。
そのうえで、今後は関税以外の非関税障壁・手続コストの削減が主戦場になっています。(ERIA)
3. 第1次改訂(2019年):自己証明スキーム(AWSC)の導入
3-1. First Protocolの中身
ATIGAはすでに一度改訂されています。
- 名称:First Protocol to Amend the ASEAN Trade in Goods Agreement(第一次改正議定書)
- 署名:2019年1月22日(ハノイ)(WTO Center)
- 発効:2020年9月20日(10加盟国すべてが批准完了)(Ministry of Trade and Industry)
主な目的は、ASEAN-wide Self-Certification(AWSC)スキームの実装です。
これは、
条件を満たした輸出者(Certified Exporter)が、
自社で原産地を自己証明できるようにする仕組み
で、従来の「当局発給COのみ」を補完するものです。(Apolat Legal)
AWSCにより、理論上はFTA利用のスピードと柔軟性が上がるはずですが、
実務ではいまでも
- 従来型のCO Form D
- 自己証明(AWSC)
- 将来を見据えたe‑Form D
が並行する過渡期の運用が続いていました。
そこに今回の「ATIGA 3.0(第2次改訂)+e‑Form D完全電子化」が重なり、
ようやく**「紙とハンコ前提」の世界から、本格的なデジタル貿易インフラへ移行するフェーズ**に入ってきた、という位置づけです。
4. 今回のATIGA改訂(ATIGA 3.0)のポイント
4-1. 第2次改正議定書(Second Protocol)の署名状況と発効タイミング
- 名称:Second Protocol to Amend the ASEAN Trade in Goods Agreement
(アップグレードATIGA/ATIGA 3.0と呼ばれることが多い)(ASEAN-BAC) - 2025年10月26日
第47回ASEAN首脳会議(マレーシア・クアラルンプール)の場で
ASEAN経済大臣が第2次改正議定書に署名し、ASEAN事務総長に引き渡しました。(Vietnam National Trade Repository) - ただし、11月時点の公表情報によれば、
「10加盟国のうち8カ国が署名済みで、残る2カ国は2025年11月中の署名が見込まれる」とされています。(LinkedIn) - 議定書の規定では、
**「全ASEAN加盟国の署名完了から18か月後に発効」**とされています。(Vietnam National Trade Repository)
👉 このため現時点(2025年12月4日)では、正式な発効日はまだ確定していない状態です。
ビジネスとしては「2027年前後から本格適用が始まる可能性が高い」と見て準備しておくのが現実的です(ただし最終的な日付はASEAN公式の告示を要確認)。
4-2. ATIGA 3.0の中身(公表情報ベースの整理)
ASEANや各国当局・関係機関が公表している説明を総合すると、
ATIGA 3.0 の柱は大きく次の4つです。(ASEAN-BAC)
- 貿易円滑化・通関の高度化
- AEO(認定事業者)制度の相互承認による貨物の迅速通関
- 電子的な原産地証明(e‑Form D)とデジタル文書の受入れ拡大
- WTO TFA(貿易円滑化協定)を上回るレベルの「TFAプラス」措置
- ルールの近代化と新分野の取り込み
- 循環型経済(circular economy)
- 再生品・再製造品(remanufactured goods)
- 貿易と環境
- 食料安全保障
- サプライチェーン・コネクティビティ
- 人道危機時の貿易(trade in humanitarian crises) など
- 既存分野の強化
- 内国民待遇・市場アクセス
- 原産地規則(Rules of Origin)
- 貿易救済(セーフガード・アンチダンピング等)
- 中小企業(MSME)の支援
- 経済・技術協力の枠組強化
- 紛争解決・透明性の向上
- ATIGAに基づく紛争解決メカニズムの新設・迅速化
- 通知義務・協議手続の明確化により、企業から見た予見可能性を高める狙い
特に、マレーシア政府やASEAN側のコメントでは、
- 「貨物の通関を『より速く・より安く』する」
- 「MSME(中小企業)のサプライチェーン参加機会を拡大する」
といった実務寄りのメリットが強調されています。(PortCalls Asia)
5. e‑Form D完全電子化の実態
5-1. e‑Form Dとは?
Form Dは、ATIGAに基づく特恵関税を享受するための原産地証明書です。
その電子版がe‑Form Dで、ASEAN Single Window(ASW)を介して各国税関間でやり取りされます。(Singapore Customs)
ASWは、
- 各国のNational Single Window(NSW)をつなぐ域内共通の電子プラットフォームで、
- 当初はe‑Form Dのみを対象に運用され、今後ACDD(ASEAN Customs Declaration Document)や検疫関連証明書などへ拡大していく構想です。(WTS Global)
5-2. 2024年1月1日から何が変わったのか
ASEANおよび各国税関の公表によると、
- 2024年1月1日から、
**10加盟国すべてでe‑Form Dの発給・受入れが完全実施(full implementation)**されました。(ASEAN Main Portal) - これに伴い、
- シンガポール関税庁は
「2024年1月1日以降、すべてのASEAN加盟国が電子Form Dの完全送受信を開始したため、輸入税関は紙のForm Dを優遇関税の申請に対して拒否し得る。」と明言しています。(Singapore Customs) - タイのe‑Form Dプロジェクト説明でも
「2024年1月1日時点で10加盟国すべてが電子Form Dの完全送信を実施しており、紙のForm Dは原則受け付けない」とされています。(Digitalize Trade)
- シンガポール関税庁は
実務的には、
「ATIGAを使ってASEAN域内に輸出する場合、原則として
e‑Form Dを発給し、ASW経由で相手国税関に送ることが必須」
という世界に切り替わった、と理解して差し支えありません。
なお、ASWは現時点ではATIGAのForm Dのみが対象で、
他のFTA(RCEP、ASEAN+1 FTAなど)の原産地証明は別ルートで処理されています。(WTS Global)
6. ATIGA改訂 × e‑Form D完全電子化で何が変わるか
ここからは、少し踏み込んでビジネス実務への影響を整理します。
6-1. 通関リードタイムとキャッシュフローが大きく変わる
ATIGA 3.0では、AEO制度の相互承認や電子証明書の活用によって、
貨物の事前審査とリスク評価を強化し、到着後の検査・照合を減らす方向が打ち出されています。(PortCalls Asia)
e‑Form Dは、
- COの偽造・誤入力リスクを下げる
- 事前に電子データとして税関に届くため、貨物到着前の審査がしやすい
という特性があり、ASW+AEOと組み合わさることで、
「船が着く頃には関税評価がほぼ終わっている」
という世界に近づきます。
これはそのまま
- 在庫回転日数の短縮
- 港湾・倉庫での滞留コスト削減
- キャッシュフロー改善(関税・消費税の支払いタイミング前倒し抑制)
につながります。
6-2. コンプライアンスリスクの「見える化」が進む
電子化により、各国税関は
- e‑Form Dに記載された内容
- 輸入申告データ
- 過去の輸出入実績
をデータベースで突合・分析しやすくなります。
その結果、
- 原産地規則(RoO)の誤適用
- 関連当事者取引の価格設定
- 品目分類(HS)誤り
などが後日一括して検証されやすくなるため、
「とりあえずCOを取っておこう」的な運用は、徐々にリスクが高くなる
と考えるべきです。
逆に言えば、社内で
- サプライチェーンごとのRoO判定ロジック
- コスト構成のトレース
- ERP/貿易管理システムと連動した記録管理
をきちんと整備しておけば、税関からの照会・監査にも対応しやすくなり、
「守りながら攻めるFTA活用」がしやすくなります。
6-3. MSME(中小企業)のチャンスが広がる
ATIGA 3.0では、条文上もMSME支援が明示的に位置づけられ、
サプライチェーンへの参入機会を拡大することが目的として挙げられています。(ASEAN-BAC)
e‑Form Dの完全電子化により、
- 原産地証明の申請・管理コストが下がる
- サプライヤーがオンラインで必要情報を共有しやすい
という効果が期待でき、**中小サプライヤーでも「ATIGAを前提とした価格提示」**がしやすくなります。
7. 日本企業・多国籍企業が「今」やるべき実務チェックリスト
7-1. FTA利用状況の棚卸し
- 自社グループで
- どの拠点から
- どの国へ
- どの協定(ATIGA/RCEP/ASEAN+1 FTAなど)
を使って輸出しているかを一覧化。
- ATIGAを使っている取引について、どこまでe‑Form D+ASWベースで運用しているかを確認。
7-2. 原産地管理プロセスの「電子化前提」への作り替え
- 部材レベルの原産地情報を
- サプライヤーポータル
- ERP/PLM
のどこで保持するのかを明確化。
- RoO判定ロジック(RVC計算、CTH基準など)をシステム化し、
Excelベースの属人運用を減らす。 - AWSC(自己証明)を使っている・使う予定がある場合は、
e‑Form D運用との役割分担(どの取引は自己証明/どの取引はe‑Form D)を整理。
7-3. 現地NSW・ASWへの接続体制の確認
- 各ASEAN拠点が利用している
- National Single Window(NSW)
- e‑PCOシステム(マレーシアのePCOなど)(DagangNet)
のアカウント・権限管理を棚卸し。
- シンガポールやタイなど、完全電子化を厳格に運用している税関については、
e‑Form Dの送信手順・再発行・取消手順まで実務として落とし込む。(Singapore Customs)
7-4. 社内教育・ベンダーとの役割分担
- 営業・サプライチェーン・経理・法務を巻き込んで、
- 「ATIGA 3.0で何が変わるか」
- 「e‑Form D完全電子化で何ができるようになるか」
を社内共通言語にする。
- フォワーダーや通関業者に丸投げしている部分について、
- どこまでを外部に委託し
- どこからを自社が責任を持つか
を改めて線引きする。
8. まとめ:2〜3年で「ASEANでのものづくり・物流の前提」が変わる
- ATIGAはすでにほぼ全品目の関税をゼロにしている協定であり、
今回の改訂(ATIGA 3.0)は、
**「関税以外のコストとリスクをどこまで下げられるか」**に焦点を当てたアップグレードです。(ASEAN-BAC) - e‑Form Dの完全電子化は、
すでに2024年1月1日から10加盟国で現実に動いている仕組みであり、
今後はATIGA 3.0の各種貿易円滑化措置と組み合わさることで
通関・原産地管理の「デジタル前提」が一気に標準化していきます。(ASEAN Main Portal) - ティモール=レステの加盟によりASEANは11カ国体制となりましたが、
ATIGAやe‑Form Dへの正式な参加は別途プロセスが必要になる見込みで、
こちらも今後のフォローが必要です。(ASEAN Main Portal)
ビジネスとして重要なのは、「発効を待ってから動く」のではなく、
「発効する頃には社内のプロセス・システムが追いついている状態」にしておくことです。